名誉院長が九州大学病院心臓外科に在籍していた頃、欧米で心臓ペースメーカーによる治療が始まりました。我が国におけるその黎明期からこの治療に携わっており、経験は豊富です。「田原通信」という雑誌にその頃の思い出を掲載しています。ご一読ください。
名誉院長が九州大学病院心臓外科に在籍していた頃、欧米で心臓ペースメーカーによる治療が始まりました。我が国におけるその黎明期からこの治療に携わっており、経験は豊富です。「田原通信」という雑誌にその頃の思い出を掲載しています。ご一読ください。
もう40年以上も前の昔話です。筆者が九州大学病院に在籍していたころ、心臓ペースメーカーを自作して実際に臨床に使った経験談を記してみます。古い話ですので、記憶が定かでない部分もあることをお許し下さい。
それは1964年の春でした。患者さんは心内膜床欠損症という先天性心疾患を持つ少年で、縫合を要する部位に刺激伝導系が位置しているので手術が難しい症例でした。心配が現実になり、術後に外科的ブロックという合併症が発生しました。脈が極端に遅くなり、もともと大きかった心臓が更に膨れ上がり、少年は心不全に陥りました。強心剤・利尿剤もほとんど効果がなく、根本的な治療、つまり脈拍数を正常に戻すことが最重要と考えられ、主治医として焦りました。
文献を探すと、心臓の筋肉に電気パルスを送って刺激し脈拍数を上げる、人工ペースメーカーなるものが米国では既に市販されていると知りました。東大では須磨幸蔵先生らが、それを用いて本邦初のペースメーカー植え込み手術に成功された直後でした。 しかしそのとき使われた器械はいわゆる治験用のもので、まだ日本には正式には輸入されておらず、九州の地では入手不可能だったのです。上司と相談して自作しよう、と決心しました。
この頃は丁度あらゆる電子回路のデバイスが真空管からトランジスターへ移行する変革期で、部品の入手は比較的容易でした。回路には大きく分けて二つの方式があり、一番小型に組めそうなのはマルチ・バイブレーターですが、簡単なのはブロッキング・オッシレーター、どちらも電池の消費電流は似たようなものなので、トランジスター1石でできる簡単な後者を採用しました。
今のように自己脈が出ると刺激を止めるデマンド型ではなく、勝手に刺激パルスを送り続ける一番原始的なタイプです。 一番の問題は電池です。現在のペースメーカーに使われているのはリチウム電池で10年近い寿命がありますが、当時は水銀電池でした。米国製の完成品は電池寿命2年から3年と書いてあります。わが国で同等の性能の電池が入手できるか不安でしたが、製造元の松下電器に電話して、出来たての新品を工場から直送してもらいました。
さて回路は使い慣れた半田ゴテで簡単に出来上がったのですが、所要の電圧を得るため電池を直列に繋ぐ必要があります。電池の注意書きには半田付けは不可、スポット溶接で、とあります。やってくれる博多の町工場を探し回りました。 次に出来上がった本体を被覆絶縁しなければなりません。生体に埋め込んで最も刺激が少ない材料はシリコン・ゴムと知り、信越化学という会社が生産していることを聞き注文したところ、なんと石油缶で送られてきて持て余しました。
そうやって出来上がったペースメーカーを患者さんの体内に装着するためには、本体と電極を滅菌する必要があります。ペースメーカーの部品は高熱に弱いので、滅菌効果が確実な高圧蒸気を使う訳にいきません。現在の製品は強力な放射線で滅菌しているそうですが、すこし前までは酸化エチレンというガスが使われていました。その酸化エチレンも当時は入手できずフォルマリン・ガスを使いました。
そのようにして苦心惨憺、不恰好ながら手製のペースメーカーが出来上がりました。心臓に装着するとみるみる心不全は改善され、少年は危機を脱し、関係者一同胸を撫で下ろしたことでした。 その後まもなく米国製の市販品が輸入されるようになり、自作のペースメーカーは短期間でその役目を終えました。自作の器械を患者さんの体内に植え込むなど今の時代では到底許されないことで、厚生労働省の使用認可をとったり大学の倫理委員会の承認をうけたり、大変な手続きを要することでしょう。しかし何しろ患者さんの病状は緊急事態、完成品は入手できないという切羽詰った状況でしたので、許される行為だったと自らを慰めています。